MEMORY.1 『無痛』 | 僕に特別なところはない。 兄に懸けられた期待、妹に注がれた愛情、それらを背負わずに育った。 僕は、兄が上手く教育できなかったときのスペア。 ワイシャツのタグについているボタンと同じ。 間違いなく機能し、道を踏み外さなければいい。 兄が優秀だと断定されてからは、スペアとしての役目もなくなった。 数ヶ月前、大学受験をしないことに決めた。 かといって就職活動という気にもなれず、履歴書の長所・短所も空欄のまま。 こんなにも『うだつのあがらない』僕を、選んだ人がいた。 イサクとミライ。 付き合い方にはルールを設けた。 受容できることと、できないこと。線引きをした。 『任務外でも会いたい』受容可。時間が許せば。 『リアルでも会いたい』受容不可。不必要。 『メシ食おうぜ』? 受容して、問題はない。 『あだ名で呼び合おうぜ』?? それは、イヤだ。 『じゃあ、コンビ名をつけようぜ』??? なぜ? 「だってオレたち…… 相棒だろ」 あのときイサクは『相棒』以外の単語を口にしようとして、直前で修正してきた。 他人の熱を感じるほどに、冷めていく。 他人の痛みを感じるほどに、麻痺していく。 僕のために怒ったり泣いたりする人間なんて、いない。 そんな人間は、いないほうがよかった。 |
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MEMORY.2 『疼痛』 | 誰かの存在を有り難く思うのは、誰かが不在のとき。 わかっていた。それが当然だという事。 隣から口出しをされると、本気で鬱陶しい。 でも静まり返ったときに、物足りなさなのか、心細さなのか、もしかしたら『寂しさ』を覚える。 これまでの僕に、不手際はなかった。 叱られることもなかった。 嫌われずに過ごした。 好かれなくても気に留めたことはない。 愛憎みたいな振り切れた感情は、別世界にあるもの。 記憶に残らない人間。 心を揺らさない人間。 それでいい。それでいいのに。 「リアルでもさ、会おうぜ」 そんなことをしたら、せっかくのセブンスコードが台無しだろ。 でも。 「会いに行くから」 そう言わなきゃ、そうしたいと思った。 だいたい、もう壊れてたんだ。 セブンスコードも僕も。 アウロラ。 君の発した光が、影絵の世界をつくりだした。 複雑で、乱暴で、腥い。 極光がおとした影は、生き物の形をしていた。 |
MEMORY.3 『鈍痛』 | 他人の身体に慣れることはない。 暑いのか寒いのか、わからない。 痒いのに、どこを掻けばいいのかわからない。 一枚の余計な膜。 一拍のタイムラグ。 今月の僕は『本体』の気配を感じなかった。 抜け殻になっているはずのそれが、別人になっていたから。 そして、相対することができたから。 完全な入れ替わりは初めてのこと。 揺れ続ける内臓の気配。 怒ってるけど可笑しい。 可笑しいけど悲しい。 火のついた燐寸を呑み込んだような、焦り。 そういった心許ない感覚は、倍増するのか半減するのか。 「匂いが変わったので、はじめは気づきませんでした」 榊の言葉は明瞭だ。 なんの他意もないからか、解答として僕を落ち着かせる。 榊のこともヨハネのことも、何も知らない。 どこの誰なのか、齢も性別も国籍も知らない。 でも、本質は理解できている、つもりだった。 |
MEMORY.4 『激痛』 | 面接官は、僕を見ようとしなかった。 「志望動機は?」 「御社の運営方針をもとに、ユーザーに規則遵守を促したいから、です」 「それは志望でも動機でもないね。あと、ウチは会社じゃないから」 『御社』と呼べないのなら、呼びようがない。 「自己アピールは? 履歴書には『誠実』とあるけど」 「はい。約束を破ったことはありません」 「一度も?」 「はい」 ようやく、面接官が顔を上げた。 「だったら、友達が多いんだろうね」 「問題ありません」 肩を震わせ、眼鏡の上から顔を覆い、彼は僕をせせら笑った。 「君さ、質問と答えが絶妙に噛み合ってないんだよね。本当に絶妙だ」 そして僕はSOATになった。 約束は破らない。できない約束はしない。 自分に課したことはある。 『イサクを取り戻す』『ウルカを逃がす』。 そして『アウロラの謎を解く』。 「青柳一朔を取り戻したいのなら、アウロラに執着すべきじゃない」 「いや。アウロラの目的を知ることが唯一の手段なんだ」 「あんたは標的を見誤っている」 僕とヨハネは問答を繰り返していた。 「ねえ、これだけはボクと約束してよ。植能は7以上保持しないこと」 「何が起きてもかまわない。それがアウロラの意志なら」 反論に身構えたが、ヨハネは黙って頷いた。 拍子抜けしたまま、僕も黙った。 約束はできなかった。 ただ、問答を終わらせたくなかった。 あの時間は、どこか心地よくもあったから。 |
MEMORY.5 『鎮痛』 | 僕には、特別なところがない。 僕にとって、特別だと思えるものもなかった。 特別な趣味、特別な能力。 特別な時間、特別な相手。 なにも好きじゃないし、なにも嫌いじゃない。 楽しいか楽しくないか、その区別はあったけど。 「大切に使え」と槍を預かった。 「気に入っている」と言っていた。 その槍は、僕の特別になった。 友情とか愛情とか、勝ち負けとか真実とか、後悔とか正しさとか。 みんな、なにかしら握り締めて生きている。 終わったとき、残しておきたいもの。 誰かにとっては無意味でも、どうしたって捨てられないもの。 アウロラ。 君はトクベツだ。 この世界で、はじめからトクベツな存在だった。 でも、僕にとっての特別じゃない。 君は僕だから。 僕は君だから。 取り戻せるものがあるなら、与えられるものもある。 なにも知らなくて、ごめん。 教えてくれて、ありがとう。 それがぜんぶ。 |
MEMORY.1 『夢は大リーガーとか言ってたっけ』 | 「かっとばせ」って、みんな簡単に言うよな。 オレはかっとばすだけじゃない。右に左に打ち分けて、投げて155km/h、 100mは11秒台。 地区予選からスカウトが来るってウワサで、チームは浮き足立ってた。オレを見に来るんだから、落ち着けよ。 その日を間近に控えた、夕暮れ時。 聞いたことのない音が、オレの右肩で響いた。 「まだ一年生だし」などと慰められ、オレの甲子園は梅雨入り前に終わった。チームも予選一回戦で敗退。 蝉時雨の向こう。職員室のテレビから、ブラスバンドの応援が聞こえる。 せめてグラウンドに届かない音量にしてくれよ。 オレはマネージャーとふたり、スコアを記録したり、ボールを磨いたり、すっかり舞台裏の人間になっていた。 それでもガマンできたのは、マネージャーの笑顔があったから。いつもすげーイイ匂いしてて、他のコと違って平気で日焼けしてる。 オレがなにか言うと、恥ずかしそうに笑ってくれる。 まさか。 まさかアイツと付き合ってるなんて。 考えもしなかったんだよな。 |
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MEMORY.2 『日照りから月夜に』 | 「かっとばせ」ってベンチウォーマーのオレが叫ぶ。 「あなたの右肩は元どおりになりません」って医者は言う。 もう、どうなったっていいや。 補欠のヤツらもみんな、来年の甲子園はないなって空気。コンビニでビールやチューハイを買い込んで、深夜の部室でバカ騒ぎ。 そんなつまらねー動画を、誰が撮る? 誰が見るんだよ。 …… 撮るヤツは撮るし、見るヤツは見るんだな。 校長が頭を下げて『廃部』の二文字を口にした。監督もチームメイトも、悔し泣き。 「飲んだのはオレだけです。オレが退部しますから」 土下座って案外カンタン。狭くて暗い腹んなかを、じっと覗くだけ。 地元のヒーローは、一気にヒールへ。リアルに居場所はなくなった。 さて、どうやって生きてくかな。 SOATの連中は、そんなオレの過去を知らない。 だから居心地がいい。 ただし、組まされた相棒は辛気臭い、つまらねーヤツ。オレが何を言っても、くすりとも笑わない。 だいたい会話になんねーんだよな。 ルールどおりに動く、機械みたいな相棒。 こいつが笑ったら、どんな顔になるんだろ。 |
MEMORY.3 『おまえがはじめて笑った日』 | 「だーれだ?」って、目隠しする愛らしいオレ。 いっかいも名前を言われたことがない。だれだかわかってんだろ? 壁当てのキャッチボールが続き、やがてそれがデフォになる。 バッテリーならはじめから役割が決まってるけど。 コンビってこういうふうに役割が決まるのね。 遅刻はしない。借りた金は返す。仕事はキチッと終わらせる。 それがユイト。オレの相棒。 カノジョに疑われ、常に監視されているが気にとめる様子もない。 そこは有難いところで。監視の榊と、最近イイ感じ。 マネージャーの『あのコ』は、オレの元相棒とうまくいってるかな。 「付き合うって、どういうことなんだろうな」 べつに投げたつもりじゃなかったのに。 「互いが信頼に応えることだろ」 めずらしくボールが返ってきた。 だったら…… 「相棒って、なんだろうな」 「組んで仕事をする相手だろ」 …… あ、そう。オレってその程度なのね。 しょげたオレに、相棒が言った。 「イサクとの仕事は、仕事じゃないみたいだ」 やっと、笑った。 それがユイト。オレのダチ。 |
MEMORY.1 『メモ:内側にForeverと刻印すること』 | 常と変わらず私が出勤すると、皆が待ち受けている。 弾けるクラッカー。 「片桐隊長、おめでとうございます!」 その12時間前。 「シフトを操作するのは職権乱用だ」 そんなことばかり言っていたユイトが、めずらしく休日を合わせて某テーマパークに誘ってくれたの。 「忘れ物したみたいだ。とってくる」 「ここで待ってるね」 ベンチで彼を待つ。そしたらなんと、妖精さんが迎えにきたの! 「さあ、お城へ行きましょう」 お城の広場は妖精さんでいっぱい。私を中心に歌って踊る♪ そこへ……王子様姿のユイトが現れ、片膝をつく。 「片桐未蕾。これからの物語を、僕と紡いでくれないか?」 開いたケースにはシンプルなプラチナにプリンセスカットの1カラットダイアモンド☆ 私は涙を浮かべて「はい」って頷く。 その瞬間、花びらが舞って、お城から花火があがったの……! その1年前。現在。 『求婚誘導大作戦』結実の日まで365日をきった。妖精さんの衣装は仕立て屋に注文済みである。 恋は戦と同じ。準備万端に整えねば、勝利の美酒は味わえぬ。 む? メールだ。 『理由なく勤務中に呼び出すのは職権乱用だ』 ルールを守りたがる彼と、ルールを作りたがる私。 ふっ。お似合いじゃあないか。 |
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MEMORY.2 『メモ:大きな傘を買うこと』 | もう夕飯時か。 今日も高タンパク・低脂肪・栄養たっぷりのメニューを用意した。 む? 雨音が聞こえる。予報が外れたな。 仕方ならぬ。 ……大きな傘で、お迎えに行かなきゃ! 私たちのおうちは駅から徒歩7分の分譲マンション。 静かな住宅街にあるの。あと30年でローン完済ってとこかしら? 自慢は大きなアイランドキッチン! 料理上手な私のために、ユイトが選んだ部屋なの。彼の書斎は子供部屋になっちゃうかも……? だけどネ♡ 『もうすぐ駅。なにか買ってくものある?』だって。 お迎えはサプライズにしちゃおうかな? 『ブルーベリーをお願いね。明日のスムージーに入れるから』な~んて返信しちゃった! 駅の改札。柱に隠れてアナタを待つわ。 キタキタ! 急な雨に困り顔。 走り出そうとした彼に、傘を差し出す。 「おかえりなさい」 あいあいがさで帰りましょ♪ おうちに着くと、玄関からいい匂い。 「今夜はローストポークとプロヴァンス風のラタトゥイユよ」 「美味そうだ」 ふふふ♡ そっけないけど喜んでくれてるわ! ……以上。 5年後の我々の暮らしだ。 待てよ? 確認せねばな。 『好みの肉の種類を知らせて欲しい』 7時間後、返信アリ。 『豚かな』 ふっ。やはりな。 5年後の今日。夕飯はローストポークだ。 |
MEMORY.3 『メモ:交際同意条項をトリプルチェック』 | 私は楽観主義者とは言えない。 夢見心地のときもあれば、疑心暗鬼のときもある。 なぜ、ユイトなのか? それは彼が『澄んでいる』からだ。 嘘のない人間と信じている。 そんな彼が『濁る』ところは見たくない。 榊のリポートは正確無比である。 ユイトの一挙手一投足が分単位で記載されている。現状で不貞の兆しはない。だが、油断は禁物。 『クチュール』なる、ふしだらな衣類を纏った女の影がある。 その女が現れてよりユイトの挙動に変化が生じた。どこか、虚ろなのだ。 マズイことに青柳のIDが損壊されてしまった。 同等の植能を持つ者を新たな相棒にせねばならぬが、『上』から推薦されたのが椎名鞘子一名のみであったのだ。 椎名は無愛想な女だが…… あーゆーのに限っていざというときに大胆なのだ! なにやら言動が意味深だし! 乾に椎名の尾行を命じたが、ろくなリポートが上がってこない! あいつはナニをやってんだ? どうやら椎名の行動範囲は賭場の周辺のようだが……。 『上』には逆らえぬ。 ならば椎名が不祥事を起こすのを待つしかない。 万が一のことがあったなら。破滅、あるのみ。 信じてるからね、ユイト。 私たちの愛を! あなたが濁ってしまったときは、全力で浄化してあげる。 |
MEMORY.1 『おしゃべり ~わたしにできること』 | お茶を淹れました。いつもどおり、濃いめです。 わたしと話していて、退屈しませんか? え……? いえ、わたしは楽しいです。 このおしゃべりが、毎日のご褒美タイムなんです。 仕事ですか? うーん。 わたしは橿原さんを疑ったことがないので、どうして監視をしなくてはならないのか理由がわかりません。 でも、青柳さんが言うような『他の任務』ができるとも思えません。 だってわたしには、嗅ぎまわるくらいしか能がないので……。 え? そんな……。たいしたことは……。 たしかに、このお茶に香りがなければ、ただの苦いお湯かもしれませんね。 それは嗅覚のおかげかもしれません。 このセブンスコードでは、ほんとうの匂いを嗅ぐことができません。 そのひとがどこからきて、どんな性質を持ち、どんな感情を抱くのか。それはわかります。 かといって、干渉して影響を与えることはできません。 これから起こりうる悲劇を、未然に防ぐことはできないのです。 ただありのままを記録し、伝えるだけ。 この街もにぎやかになりましたね。 はじまりにあった匂いは、ひとつだけでした。 あなたの匂いです。 ここは、あなたが創った世界だと思っていたんです。 だって、最初は幸せな世界だったでしょう? |
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MEMORY.2 『おしゃべり ~未完成な匂い』 | お茶を淹れました。いつもどおり、濃いめです。 いえ、昨日のことは気にしないでください。 いまが不幸せというわけではないんです。 仕事も嫌いではありませんし、SOATの皆さんが好きです。 ただ、いろいろありましたので。 あの…… 青柳さんのこと、なにか判りましたか? ……そうですか。また会えるような気がするのですが……。 そういえば以前、青柳さんのことを知りたがっていましたよね? 誰と組ませるのかを決めるため、でしたよね。 橿原さんも落ち込んでいます。まるで別人のようです。 わたしはずっと橿原さんを尾け回し…っ…監視していたので、ちょっとした変化にも敏感になっていて。 いまは感情を押し殺しているのだと思います。すぐ近くにいても、その匂いに気づけないほどでして。 …橿原さんの匂い、ですか? なんと表現すればよいのか……。 万人ウケするタイプ、ではありますね。 まだ完成形も見えていません。 あなたと少し似ています。 他者の移り香に濁らない、澄んだ匂い。シンプルでフクザツ。 ……はい。そういうこともあるんです。 あなたの匂いも、輪郭しか完成していません。 と、いうよりも、完成しているひとなんていないんです。 この世界の匂いも、未完成ですよ。 |
MEMORY.3 『おしゃべり ~タイムパラドックスとこんぺいとう』 | お茶を淹れました。いつもどおり、濃いめです。 ごめんなさい、今日はお煎餅もお饅頭もなくて、こんぺいとうしかないのです。甘いものはあったほうがいいと思いまして。 ああ、はい……バレてしまいましたね。 そうなんです。このところ味覚のバグが多発していて、まともなお茶請けが手に入らないのです。 え? そんなことができるんですか? いえ……でも、わたしはこんぺいとうが好きです! はぁ。温かいお茶にはほっとします。 ところで、タイムパラドックスってなんですか? ……なるほどです。 では、わたしはなにもお話ししないほうがいいのですね? え? そうですね……確かに『今』も『過去』になります。でも『今』は『未来』なのでしょうか? 主観の問題ですね。相対的です。 『今』が絶対に『今』とは言えません。 わたしの過去、ですか? お話しするようなことはなにも……。それより、あなたのお話を聞かせてください。 ? それは、いつのことですか? はい。知っています。氷砂糖で作った蜜を、お鍋で回し続けるんですよね。 核、ですか? 雨粒にも核がありますよね。 わたしの核、ですか? それは絶対的過去に存在するのでしょうか。 だけど、絶対的な時間軸は存在しないはずですよね。 |
MEMORY.4 『おしゃべり ~ナイショのおはなし』 | お茶を淹れました。いつもどおり、濃いめです。 困っています……。 とても恐ろしいことが起きまして。今後、どうやって任務をこなすべきか……わからないのです。 ……いえ、それは……思い出したくありません……。 はい? ええ、それは思い出せます! あの頃は、SOATの隊員も5、6人でしたね。 お客様も少なかったのですが、とっても忙しくて。ユーザー規定も抜け穴だらけでしたね。 開園までに定員にならなかったのが不思議です。応募者は多かったのに……。ああ、そうでしたね。書類審査をされたのは、あなたでしたね。 わたしの合格の決め手はなんでしょう? ……ですよね。秘密ですよね。 あのときの面接官の方が、どなただったのか。わからないのです。 眼鏡をかけた、ほっそりとした方です。 ヒノハラさん? ですか? いまはなにをなさっているんですか? 実験? ……それは、セブンスコードで、ですか? 興味を惹かれますね。あ、はい! わかっています。ナイショですよね。 ほっぺですか? もう傷はふさがっています。ありがとうございました。 危険? ……そうですね。もう任務がないので。 辞めてしまってもいいのかも、しれません。 でも。まだ、なにも始まっていないように感じるのです。 |
MEMORY.5 『おしゃべり ~このままがいいのです』 | お茶を淹れました。いつもどおり、濃いめです。 はい。さきほどの橿原さんのご依頼ですよね。 これから向かいます。ヨハネさんは、大切な方のようですので。 ……大丈夫ですよ。わたしにもイザというときの切り札があるんです! え? 自分自身に、ですか? そんなこと、考えたことも……。違います。わたしは、ちゃんと……ちゃんと憶えています。 いつ、どこで? それは、重要ではありません。 ……だから? だから、こんな想いも忘れてしまえと言うのですか? 忘れられるものなら、とっくに忘れているはずです。忘れるという能力は人間にのみ有効に働くのです。だから…… わたしも、そうしなくては……と。 あんなふうに、綺麗に生まれたかったです。 ……それは、あなたの価値観です。 胸の奥が痛いのです。 いえ、傷はありません。 やめて。 やめてください。 痛いままが、いいのです。 杉浦さん。ひとつだけ願いを叶えてください。 この痛みを消さないでください。 この想いを消さないでください。 わたしは、このままがいいのです。 なにも始まらない。 でも、負けない。 ……え? もし、そうなったとしたら。 嬉しいのですか? 悲しいのですか? ただ、これまでのように。そばにいたいだけなのです |
MEMORY.1 『両腕を引かれて』 | ボクが10歳の頃、両親の離婚が決まった。 父も母も、ボクを欲しがった。 家庭裁判所に持ち込むのは面倒だから、ボクが決めなくちゃならない。 これから、どちらと暮らすのかを。 共働きの両親は、それぞれ自由な財産を持っている。 父は母に、母は父に、負けられない。 「お小遣いをあげる」「もっとたくさんあげる」「なんでも買ってあげる」 「もっと高いものを買ってあげる」……さあ、どちらを選ぶ? そのうちに、ボクは嘘をおぼえていった。 服が欲しい。パパはいいって言ってくれたよ。 男らしくない? ママはいいって言ってくれたよ。 似合うでしょ。パパは褒めてくれたよ。 かわいいよね? ママはボクが特別だって、認めてくれたよ。 ぜーんぶ、嘘。 ざまーみろだ。誰がボクを所有しようと、ボクはボクのモノ。 一年後。ただ苗字を変えてみたくて、ボクは母を選んだ。 その後も両親は競ってボクの気を惹き続けた。 高校の頃、父が再婚するまでは。 もっと大きな嘘をついて、もっと大きなモノを手にしたい。 ボクには、その価値があると思っていた。 いつか、それを証明してみせる。 ここではない、もっと広大な世界で。 |
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MEMORY.2 『小魚の処世術』 | あの頃、父との面会は毎週末だった。 医療機器メーカーに勤めていた父は、社内イベントにもボクを連れ出した。 記憶に残っているのは『サケの稚魚放流会』。 初夏。11歳のボクにとって、退屈な催しだった。 ボクはサンダルを脱ぎ、川底に爪先をつけた。 「水は冷たい?」 眼鏡の若い男がボクに訊ねる。 答えずにいると「君は男の子なの?」と、腕を掴まれた。 ムシズが走るような感覚がした。 「息子です」父が割って入る。 「カンバさんの?」男が意外そうに笑う。 「このひとは優秀な研究者さんなんだよ」 父の眼差しに、圧を感じた。愛想よくしなさい。 「お名前は?」「よはね」「いくつ?」「11」 「僕が怖いの?」 あたりまえでしょ。 「だったら、群にまぎれないと」 赤い魚群に、1匹の黒。あの絵本みたいに? 「でも、君は見つかっちゃうよ。どこにいても必ず」 フリーズしたボクの手を誰かが引っぱった。 向こう岸に着いてから、手をほどく。 「ごめん。あれ、俺の叔父さんなんだ」 中学生がボクに頭をさげた。 男はまだ、遠くからボクを眺めていた。 稚魚は勢いよく川面に泳ぎだす。 だけどいつかは、腹を裂かれて喰い物にされる。 あいつ、だったんだ。 ボクはとっくに標的にされていたんだ。 |
MEMORY.3 『ハイエンド』 | VRIR―― 仮想統合型リゾート・セブンスコード。 高校生になって自立を考え始めたとき、足を踏み入れた。 最初は興味本位だった。 運営寄りの立場なら得をすると聞き、SOATの入隊テストを受けた。 適性はA+。どういう採点基準なの? 角膜の〝植能〟を貸与され、いきなりの上級隊員だ。 このコルニアの能力は、まさにボクにうってつけ。 ごまかし、あざむき、煙に巻く。 そこに目をつけたのか、ミカという同僚が儲け話を持ちかけてきた。 賭場でのイカサマ。楽勝じゃん。 賽の目はボクの思いどおりに変えられるし、手札もブタ知らず。 もう、SOATで働く必要もない。 ここでの通貨はリアルで換金できる。当然、リアルで使うつもりだった。 なにを買おう? ボクはいま、なにが欲しかったんだっけ? リアルで物を買っても、場所をとるだけ。 だったらこのセブンスコードで好き勝手しようかな。 まずは殻をハイエンドにアップグレード。服。靴。アクセ。他には……。 なにを買おう。ボクにはいま、なにが必要なんだっけ。 ヤバイ。賭場の連中がボクを探り始めた。 ボクはまだ、小魚だったのかな。 誰に追われているのか、気づけなかったんだから。 向こう岸に導いたひと。 あんたは憶えてる? ボクは思い出したよ。 |
MEMORY.4 『鏡の向こうの策士』 | 頑固で融通のきかない変わり者。 知ってる? ほんとうに変わってるヤツは自分が変わってるって気づかないんだよ。 ボクが怒ると、あいつも怒る。コミュカ0のくせにミラーニューロン働かせてんじゃないよ。 ちょっとは学習してんのかな? ヒトを振り回すのは好きだけど、振り回すように仕向けられてる。 要するに、このボクが振り回されているんだ。 あー。爪がボロボロ。噛んだらダメってわかってるのに。 この爪も幻。リアルのボクに、爪を噛む力なんてない。脳が筋肉に信号を送れない状態。セブンスコードの捕縛って、そういうこと。 いまごろは病院かな? 神経転移したまま気を失っているボクを、誰かが見つけたなら。 ときどき思う。リアルに戻りたくないなって。 あのバカと出会ってから……なのは偶然。たぶん。 もし、リアルであいつと会ったら。ぎこちない挨拶をするんだろうな。 「はじめまして。あっちでは失礼なことを言ってゴメンナサイ」 でも、あいつは相変わらずで。ほんの数分で喧嘩になる。 裏表を使い分けられるほど、器用な人間じゃないから。 あれ? あいつのミラーニューロンが働いているなら、ゴメンナサイにはゴメンナサイが戻ってくるのかな? いや。そんなの変だよ。 |
MEMORY.5 『ボクが欲しかったもの』 | 綺麗とか、可愛いとか。わかってるんだよ。 だからニレも、イカサマにこじつけてボクを追ってくる。この殻を手に入れるために。 両親にとっても、連れ歩いて見映えのする子ども。 ミカにはボクの植能が必要で、カネの話ばかりだったっけ。 そもそもこのコルニアがあれば、ボクはどんな姿にもなれたんだ。 カネなんていらなかった。 綺麗とか可愛いとかは、もういらなかった。 「返却する義務があったはずだ」とか、バカみたい。 「助けて欲しいなら素直に言え」とか、ナニサマ? 助けるのは、ボクのほうだ。 いくらでも警告するし、ちゃんと調べる。あんたの身に、何が起きているのかを。 親切とか良心とかじゃない。 興味本位とか好奇心でもない。 このセブンスコードを守れるのは、あんただけだから。 ボクに正義感なんてない。 目の前にあるものを、明らかに見る。 ボクがほんとうに欲しかったものを、あきらめない。 それだけ。 いま、真実が見えてきたよ。手は打った。 ニレはボクに任せて。 ユイト。あとは、あんた次第だ。 そろそろ、向こう岸が見えてきた。 まだ川を渡りきるには早い。 もう少し。コルニア、もう少しだけ動け。 嘘をつくためじゃなく、真実を映すために。 |
MEMORY.1 『空から地下へ』 | 飛行機が好きだった。 ヨーロッパ生まれだから、歐児と名づけられた。海外旅行も頻繁だ。 機体は離陸体勢に入る。窓外で翼のフラップが動く。滑走路で加速度をあげ、エンジンが轟音をあげる。離陸決心速度、V1。VR、ローテート。機首あげ。身体は地上と離れがたく、慣性の法則で揚力に抗う。 見る間に、すべての小窓が空色に染まっていった。 最近は、そんな情景を思い出すこともなく、クロカゲでショーマンを演じている。 薄暗い地下組織。悪くない。 ここに誘ってくれたのは、義理の叔父だ。戸籍上は母親の弟。 母方の旧姓なので、苗字は違う。 彼が祖父母の養子になったのは、複雑な理由がある。 まずは、彼が優秀で、恵まれない環境にあったため。 しかし母の養子とした場合、母の死後に俺と相続問題が勃発してしまう。 諸々鑑みた結果、彼は俺の叔父となった。 子供時代から同居していたので、俺にとっては兄のようだった。 企みに満ちた、狡猾な兄。 彼は俺を操り、支配する。 勝ち目はない。でも、どーにかなるって思い始めた矢先だった。 見る間に、すべての小窓が空色に染まっていく。 雲間を裂いて、機体は音速で俺を運ぶ。 行きたい場所へ。行きたくもない場所へ。 |
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MEMORY.2 『消滅に耐えられない重さ』 | 俺の印象は『軽い男』。 盛り上げ上手? いいね。 口が上手くて薄っぺら? そうそう。 「あんたなんて憎むほどの価値もない」 うん、わかってる。 ありのままに育っていたら、そういう男になる予定だったから。 『さがさないでください』 小5の冬、俺は家出をした。 母さんの誕生日プレゼントを買ったあと。あいつから「教授の研究室に入る」と報告があった。 「こんなに嬉しいことはないわ」 母さんは惚れ惚れとあいつを眺めた。プレゼントは捨てた。 「今夜も帰れそうにないわ。歐児を見ていてね」 あいつは笑顔で「わかったよ」と頷く。 「勉強も教えてやってね」 「まかせてよ」と頷く。 あいつから教わったのは不正解ばかり。漢字も数式もデタラメ。 それなのに、これだけは正解だと言わんばかりに。 「ママにとっての君は、僕を引き留めるための口実だ」 毎日毎晩「僕らのために存在してよ」と俺に囁く。 消えたかった。 その夜、東京は粉雪に覆われた。 翌朝には、俺ごと溶けてくれよと願う。 朦朧の手前で「そろそろかな」と、あいつが見下ろす。 「ここにいるよ、早く救急車を」 「ありがとう、あなたは恩人よ」 雪は灰色の下水になっていた。横顔を浸した俺は、不正解に発熱していた。 |
MEMORY.3 『神のリスト』 | セブンスコードが監視社会だということを、皆は知らない。 神の覗き穴のように、あちこちに『目』がある。 俺には俺の『耳目と手足』が必要だ。 身を守るために。先手を取るために。 あいつのゲームの駒となりうる人間を、特定しようとした。 まず、この世界のコアとも言えるSOATで情報収拾をする。 そのための人員を集めたが、どうやら独自の活動を始めてしまったようだ。 連中は俺に仰々しい呼び名をつけ、崇める。 面倒ではあったが、有益なログが集まった。 神のリストに載りそうな、ひとり、ふたり。 気づけばいつも、あいつの掌の上。 掬いあげられた小魚のように、じたばたともがいている。 「無駄だって言ったよね。どうして繰り返すの?」 息ができない。 「またナニか見つけたんだね。デリートするよ」 ようやく水に戻された頃には、なにもかも忘れている。 記憶を、消されている。 闇雲でもいい。 動き続けなくては。 あの7人の少女たちは、間違いなく人柱にされる。 SOATに放った『網』が、獲物を捕らえた。 クスノセ ミカ。 その相棒の、クヌギ ヨハネ。 引き寄せなくては。このクロカゲに。 理由は思いだせなくとも、このふたりを追い続ける。 これから始まるゲームに、俺が参加できるように。 最悪のエンディングは、俺が書き換える |
MEMORY.4 『川底の石を崩して』 | こいつ、女だったっけ? 見覚えがある、ような……。 櫟 夜翰は想像以上の曲者だった。 悪目立ちをして、今やニレの関心の的。 どうやって二つ目の植能を手に入れた? 『あのひと』が与えたとは思えない。では、SOAT以外から? 厄介だ。ゲームが始まる前に、俺が仕留めなければ。 実際に、そうすべきだったのに。 だんだん、見届けたい気持ちになっていった。 こいつに与えられたロールを、こいつが演じきれるのかどうか。 ニレの配役に、意図があったのかどうか。 ……そうだ、思い出した。 配役はもう、数年前から決まっていたんだ。 穏やかな清流が、脛に当たって割れる。 川底の石が、土踏まずに食い込む。 五月の木漏れ日のもと。 ニレが、子どもの腕を掴んでいた。 「君は見つかっちゃうよ。どこにいても必ず」 その言葉に、子どもは怯えている。 助けなきゃと思った。でも、動けない。 目を瞑る。息が苦しい。冷たい汗が背中を走る。 一歩ごと、石が崩れる。転びそうになりながら、進んだ。 目を開けたとき。俺はヨハネの拳を掴んだまま、対岸に居た。 「ごめん。あれ、俺の叔父さんなんだ」 「大丈夫?」 小さなヨハネが首を傾げた。 「あんたは、大丈夫なの?」 あのときも、いまも。 ぜんぜん大丈夫じゃねーよ。 |
MEMORY.5 『すべてを見届けられなくても』 | 少女たちは、もう戻れない。 ナナシのガキを除いて、帰る場所を失った。 ソウルも昏睡に落ちた。 俺の考えなんて、クソガキには伝わらないまんま。 まだ望みはあった。 ユイトとヨハネ。ミカとリアちゃん。 俺を含めて5人。一枚岩になれば、勝算はあった。 それを崩したのは他でもない、俺だ。 これまでに何度も『あのひと』を頼ろうとした。 彼はきっと、リアちゃんからなにもかも聞いていたはずだ。 だが、自ら動こうとはしなかった。 アウロラの夢を守るためだろう。 もはや、終着点は目の前だ。 機体は着陸体勢に入る。窓外で翼のフラップが動く。滑走路へ向けて、格納部から車輪を下ろす。 鋭く、凍てつく風が吹きつける。 俺は母さんに手を伸ばす。 こんなに遠かったっけ? こんなに離れてたっけ? もっと早く話せばよかった。本当の気持ちを。 いつかの粉雪が、視界を灰色に覆った。 ソウルとユイトには、ちゃんと確認しておきたいんだ。 俺は、いい兄貴だったよな? きっと、いい父親にも、いいジジイにもなれたと思う。 いい息子にはなれなかったから。 そのぶん、取り返すつもりだったんだ。 これで、少しは取り返せたかな? これからのことは判らない。 それでも、いい旅だった。 |